覚書。


日本にいるころ、なんだか見えない敵と戦ってるような焦りが常にあった。
こっちにきたら、そんな見えない敵なんて実ははじめから存在してなかったんじゃないかという気になってきた。なぜならみんな、実にあっけらかんと生きている。自分でつくりあげたフィクションに、自分で勝手にはまり込んでたんだと気づかされたような気分だ。


でもこっちの人はこっちの人で、また日本人とは違ったフィクションの中にとらわれている、とも思う。
幸せな家庭、すばらしい職場、快適な生活。
他者の目からみると、こんなもの全部ただのフィクションなんだと思ってしまう(ひねくれすぎか?)。


デザインの問題として自分の身にひきつけてこれを考えると、快適だとか当たり前だとか思っていることはすべて一回疑ってみなきゃいけないということになる。玄関は本当に必要なのか、とかベッドルームはやっぱり必要だ、とか。


そして疑うということは否定するということとは違うというのが難しいところだ。
バスケのルールを理解しようとしなければバスケの名プレイヤーにはなれない。
名プレイヤーはルールを熟知した上でその中でクリエイティブな仕事をする。


ともすれば「熟知」と「クリエイティブ」は相反することになってしまうけれども。



オランダの「あたりまえ」な住宅のプランを指導されながら、やっと日本の「あたりまえ」な住宅のプランを相対化できたかもしれないとおもっている今日この頃。