仮定


ファン・アイクやヘルツベルハーの特徴は、できるだけ作家性を消し使用者による建築の多様な解釈と操作を促そうとする点にあります。しかし彼らはミースのユニヴァーサルスペースが使用者に何も手がかりを与えないことを知っているので違う方法をとることにする。そこで彼らが必要としたのが、「構造」です。「構造」とは空間の形式のことで、究極的にはその選択は完全に恣意的なものです。*1彼らは一旦自分で「構造」を措定しておいてから、後で使用者の観点からみてその「構造」に細かい操作を加えていく。多重人格的。


つまりちょっと大胆に仮説を立てると、


①オランダ構造主義建築家の設計手法は2段階にわけることができる。「構造」(=物理的なモノの形態=空間の形式)を設計する段階(第一段階)と、使用者のアクティビティの観点からその形式を崩したり、手を加えたりする段階(第二段階)。一旦自分で作った形式をリノベーション的に再操作する。形式が強い建築=広義のフォルマリズム?


そして、詳しく作品を見ていくと


②アルド・ファン・アイクは第二段階においても積極的に自らの手で作りこんでいこうとする。崩していく。ヘルツベルハーは第二段階ではより多くを使用者の解釈にゆだねる傾向があるので、空間の構造をそのまま強烈に形態で表現しようとする。ちょっと突き放したつくりかた。

また「構造」の概念はもともと数学から来たもので、変わらない関係性を意味する。(代数学:y=ax+b, 位相幾何学:図形に共通する構造)そして関係性を扱う以上、対象は群になる。アイクやヘルツベルハーは空間群を「構造」として捉え、構造を表現するために単位の反復という手法をとる。空間を群として考えるから、都市と建築を連続的に考えることになる。そこで得られる最後の仮定が、


③彼らは「構造」を実際の物理的な構造に結び付けて考える。必然的に単位をどう架構するかということに関心を持っている。




個人的には「構造」という形式の選択の恣意性と、一度措定した「構造」を使用者の観点から崩すという多重人格的な設計手法に興味がある。
そして③の「構造」=物理的構造という図式は短絡的過ぎると思う。また、「構造」を表現したいあまりに外部環境に対する配慮が失われてしまっている点は批判されるべきであると思う。

*1:ヒューマンスケールの単位とか、プレファブリケーションできる単位とか、家族構成に対応した形式だとか言うことはできてもそれらが一意に形式を定めるということはありえない