マイクロポップの時代:夏への扉

土曜日に水戸芸術館に行ってきました。

お目当ては展覧会『マイクロポップの時代:夏への扉

マイクロポップの時代:夏への扉

マイクロポップの時代:夏への扉

↑カタログ


松井みどりさんのマイクロポップ宣言をはじめて読んだとき、目からウロコというか、なんだか現代美術や現代建築についてもやもやと考えていた事柄を上手に言語化されてしまったなあという気がして、それ以来ずっとこの展覧会のことを気にかけていました。また、奈良美智田中功起などのすでに知っているアーティスト以外の作品も一度みておきたいと思っていました。


個々の作品はそれぞれ興味深く、楽しく鑑賞することができました。また、松井みどりさんのマイクロポップ宣言も現代的状況をよく説明しているし、その状況を歴史的な流れに接続しようとする試みはたいへん野心的であると思いました。ただしひとつ気になったのは、この展覧会で『マイクロポップ』のアーティストとして紹介されている作家たちはほんとうにそんなことを考えながら作品を制作しているのか、ということです。たぶん彼らはそんなことを考えてはいないのではないか。より正確に言うと、『マイクロポップ』を意識していなくても『マイクロポップ』な作品は製作できる。


おそらく『マイクロポップ』というアーティストのカテゴライズの仕方、状況の説明の仕方は松井みどりさんのクリエイションでしょう。彼女によってデザインされたものの見方から今日の現代美術の状況をみてみると、おどろくほどスッキリと説明できる。その意味で、松井みどりさんの『マイクロポップ宣言』はたいへん意義深い試みであるといえます。


しかし一方で、そのように現代美術の状況全体を俯瞰的に見る立場からはクリエイションは生まれないとも思いました。なぜなら『マイクロポップ宣言』にもあるように、個々人の「日常性の実践」こそが『マイクロポップ』的な姿勢であるのだから、全体を俯瞰するような立場からは現代的なクリエイションは生まれないのです。それはちょうど建築史家と建築家の関係と同じであるということもできると思います。実際にクリエイションする人は全体の流れを意識しながら製作することもあるだろうけど、意識しないで製作することも可能である。意識しないほうがいいという状況だってありえなくはないでしょう。


とはいえこれはアートの話なので、建築とは若干状況が異なると思われます。建築家はアーティストよりも社会的な責任を負わなくてはいけないぶん、自分の立ち位置を全体の流れの中に位置づけて説明しなくてはならないからです。建築を通して何かを表現するということはアンビヴァレントな作業であると、改めて感じさせられた一日でした。