女王の百年密室

[book]
森博嗣の小説を読んだ。


女王の百年密室

森博嗣 新潮文庫


全三巻で完結らしい。二巻目『迷宮百年の睡魔』の途中まで読む。
SFとミステリィがないまぜになったような、不思議な作品。
僕はこの小説の主人公のキャラクタ設定を知った瞬間、目からウロコが落ちた。


主人公は、「脳」と「身体」が分離しているまま生きている半分人間、半分機械のような存在で、「身体」には、かつて殺された恋人の体を使用している。(従って容姿は女性だが精神は男性、ということになる)また、「脳」は、つねにその「身体」に付き従うアンドロイドのようなロボット(作品の中では、walk alone = ウォーカロンと表現されている)の中に格納されていて、「身体」の頭部には、「脳」からの指令を経由して「身体」へと伝えるような通信機能を果たす装置しか存在していない。そしてさらにややこしいことに、ウォーカロンはウォーカロン自身のプログラム=意思を持って、独立した思考を展開することができる。


つまりこの二人 (二人という表現が適切ではないかもしれないが) は、外から見れば一人の女性の人間とそれに付き従う一体のウォーカロンのペアに見える。しかしその実態は、有機物と無機物が渾然一体となったままその中に二つの意思が存在しているという状態。しかもその二つの意思とは、一方は外見とは裏腹に男性であり、もう片方はウォーカロンを動かしているプログラムそのものである。極端な話、女性の人間の姿をしている「身体」の方が破壊されたとしても、ウォーカロンの方さえ無事ならば二つの意思は存続できるということになる。


身体と感覚の関係について考えるとき、この独創的な小説は新しい考え方を提示しているように思える。


外界からの刺激を受け止めるセンサ自体は、もちろん「身体」のほうに組み込まれている。そしてそこで受けた刺激が「脳」へ届き、そこで初めて感覚が生まれる。この場合、その感覚を覚える主体は、その刺激をどのように受けとめるのか。


あたかも自分の「脳」がその「身体」の頭部に組み込まれているかのように感じ、痛みなども生々しく感じ取ることができるのだろうか。あるいは、あくまで「脳」からは物理的に離れた場所で起こる現象として、遠い世界の出来事として認識されるのだろうか。


前者のような状態に、僕は興味を覚える。


このことについて考えるときに、忘れてはならない条件が一つある。この小説の舞台設定は2100年くらいの近未来。この未来において科学技術は今現在よりさらに進歩を遂げ、より高性能なセンサと通信装置を作り出している。


だからこの「身体」に取り付けられているセンサはとびきりの高性能で、視覚には人間のそれとは比べものにならないレベルの、解像度の高い画像が飛び込み、視野に写る物体の物理的性状やテクスチャの状態などは瞬時にデータ化される。赤外線スコープのような機能も併せ持ち、暗闇も苦にならない。


また、その視覚センサが受け取る刺激は、即座に「脳」へと伝達される。ワイヤレスで行われるこの伝達速度が遅ければ、あらゆる感覚はどこか遠い世界の出来事として認識されてしまうだろう。しかしこの近未来においては、そこは技術的に解決されている。この設定が重要だ。


「脳」と「身体」が分離されている。しかし刺激を受けてから感覚が生まれるまでのプロセスは、むしろ通常の人間よりもはるかに短く高精度で行われる。このような状態を達成した存在は、もはや新人類だ。


人工物と有機物のハイブリッド。
人間の意志とコンピュータのアルゴリズムのハイブリッド。


自然と人工の対立という古い図式はもはや無効である。
人間と機械の対立という図式も無効である。


そもそも自然と人工を区別する考え方は、基本的には物体を構成する物質が有機物か無機物かで分ける考え方だ。しかし、ドライに突き詰めれば意志というものは電気信号である。人間の頭の中で行われていることもパソコンのCPUの中で行われていることも物理的には同じである。


しかしこのような考え方をどんどん発展させてゆけば最後には、意志の自由が獲得されさえすれば身体などいらない、という結論に自然に落ち着いていくような気がする。ところが、この小説では、それでも執拗に身体の重要性が謳われている。それが面白い。この考え方に僕はリアリティを感じる。


身体が破壊されるなまなましい描写が何度も繰り返される。SFにふさわしいアクロバットなシーンも現れるし、ミステリィにふさわしい殺人現場の詳細でなまぐさい描写もあらわれる。身体を、物質を、軽んじているわけではないのだ。


誤解を恐れずに言えば、物質というものは実にくだらないものだ、と思うことがよくある。しかし僕は、物質を軽んじているわけではない。それどころか、そのことによって、逆説的に物質の重要性を認めざるを得ないと感じている。


僕が何かに感動するときは、もちろん常に何らかの物質が発している情報を知覚して感動するわけだけれど、そういう場合僕は、その物質の背後に存在している抽象的な考え方とか幾何学とか物理法則とかいったものを感じ取って感動している、と今のところ信じている。そしてその物質の背後にある見えない何がしかが知覚されるためには、その物質はその見えない何かに対して、ありうべきふさわしいありかたで存在していなくてはならない。見えない何かは物質を通してしか表現されず、知覚されない。まさにこの意味で、僕は物質とは重要なものであると考えている。その物質と見えない何かが、全く予想もつかないような関係性をもっていて、なおかつよく考えれば実は筋が通っているように思えるようなとき、僕は驚きを覚え、その状態全体に対して感動するのである。


だからこの小説の場合、僕は無機物と有機物がないまぜになった二つの人の形をした物質と、そこに存在する目に見えない二つの意志のくみあわせをみて、感動したのである。その意志と身体の関係は、まったく予想もしなかった驚きをもった関係であるにもかかわらず、よくよく考えてみると全くありえないことではない、それどころかかなり合理的なあり方である。




このような示唆的な作品を受けて、自分にはいったいどのような創作が可能だろうか。