土曜日は、所員の方の発案でドライブに行って来ました。
目的地は、ヒートホルンというオランダの観光地です。


高速に乗り、途中アルメラで建設中のうちの事務所のパヴィリオンをみたり(seARCHの集合住宅の横)建設中のSANAAの美術館を遠めに見たりしつつ、午前中には目的地に到着。


帰りは「大堤防」という、オランダが水没しないように作られた全長34kmもの長い長い堤防の上の道路を通って帰ってきました。


オランダは水の国です。大堤防の途中のカフェで一休みしたときに雨が降っていて、そのときに友達のオランダ人が「上も水(雨)、右も左も水(外海と湖)、下も水(水溜り)。これがオランダだよ。なんで日本人がオランダを『水国』と呼ばないのか不思議だね」といっていました。
堤防はひとつだけではなく何段階かにわけで設けられているのですが、よくみると両側の水位に差があります。
改めて自分の生活している場所が海抜0m以下であることを実感。
なんだか、自分が当たり前のように思っていた世界が実はフィクションだったと教えられたみたいでショッキングな光景です。


「世界は神が創造したが、オランダはオランダ人が創造した」
ということわざがオランダにはありますが、まさにそのとおり。


ここオランダではみんな「だまされて」住んでいる。自然だと思っていたものが全部人為的につくられている。
それはけして悪いことではなく、むしろ環境もすべて自分たちで作り上げていくものだという考え方は尊敬に値します。
環境問題を考えるとき、あまりにも絶望的な与条件の中で想像力も創造力も萎えてしまいがちですが、こういう前向きな姿勢を持って取り組むことは必要条件である気がします。環境との調和をよしとしてきた日本人には不慣れな考え方なのかもしれませんが。


同時に、使いやすい空間とか快適な空間とか、あるいは生活そのものも実はフィクションなんじゃないか、と(すこし飛躍しすぎかもしれませんが)思いました。
これはオランダに限ったことではなく、もしも都市が人為的につくられたものであるとするならば、あらゆる都市に住むあらゆる人々の生活はみんなフィクションなのではないか、と思ってしまいました。
人々が快適だとか使いやすいとか機能的だとか思っているのは全部思い込みに過ぎないというと、すこし言い過ぎかもしれませんが。


ここで言いたいのは、人間が快適だとか使いやすいとか思っている空間から出発して空間を設計することには意味がないんじゃないかということ。
逆に言えば人間というものは驚くほどの柔軟性をもっていてどんな環境であっても弱ったりせず、快適に住みこなしてしまうということ。
けして使いにくい空間を正当化しようというのではありませんが、日本から離れて生活しているからこそこういうことを考えられたのだと思います。