やっと、ネットにつながった!
うかうかしてるとまたすぐに切れるので、手短に。


仕事は朝9時から始まり7時くらいに終わるので、毎日目いっぱい仕事しても自分の時間がちゃんともてます。
なので最近夜は主にバーでビール片手にサッカー観たり、本を読んだり、知的にゆるい生活を送れています。すばらしい。


最近読んだ本の読書感想文&簡単なまとめを以下に載せます。




『原っぱと遊園地 建築にとってその場の質とは何か』青木淳 王国社


建築家が「いいな」と思うことはいつも、難しい専門用語さえ使わなければ実は一般の人たちにきちんと説明することができるという筆者。
確かに、彼の説明はとても丁寧だし、すべてが説得的で、けして間違ったことは言っていません。
ただいつもひっかかるのは、確かに彼の作品はその考え方で説明することはできる。でも、その考え方だけではこれらの作品は生まれない、ということです。
青木さんの言葉を借りれば、ひとつの「実体」(作品)をあらわす「相」(説明の仕方、考え方)は無数にある、ということでしょう。
「確かにこういう見方もできますけど、でも実はこんなふうにみることもできるんですよ」という具合に。


「相」の方からみてとることのできる「実体」はいつも一部だけ。(「実体」は無い場合すら、ありえます。)
その全体像の見えなさゆえに、彼の説明がわかりやすければわかりやすいほど、青木淳という「実体」の持つ無数の「相」のうちの、たまたま目の前に見えるたった一つの「相」だけを見せられている気分になります。


そういった意味で、わかりやすいけどミステリアスな人だな、と思います。
センスの良さと頭の良さを兼ね備えた人ならではの特性、といえるでしょう。


実は、簡単なレジュメもあったりします。あまり整理されてないので人には渡しませんが。。




『無思想の発見』 養老孟司 ちくま新書


「机の上にりんごが二つ並んでおいてあります。これは二つとも「同じ」りんごですが、もちろん「違う」りんごです。」
この文がよく理解できない人は、必読です。


実際に身体が感じる「感覚世界」と、頭の中の「概念世界」。
後者がより支配的な欧米では「思想」が発達し、前者がより支配的な日本では「世間」が発達する。(その結果、個の最小単位が西欧と日本では異なる)
「概念世界」はあらゆるものを「同じ」ものとして認識しようとするが、「感覚世界」では本来、すべての物事は個別であり、「違う」。
その二つの世界を結びつけるものが「言葉」であるが、「言葉」はともすると「概念世界」寄りになるから注意が必要である。
「言葉」を上手に操る人が「芸術」的センスに乏しいのは、脳の構造から言ってあたりまえのことである。
「都市」は本来的にどっぷりと「概念世界」に浸っている世界で、われわれはその中でくらしているけれども、もともと「概念世界」が優勢ではなかった日本ではこの状況は危険であり、「田舎」的な生活をする必要がある。


などなど、さまざまな対立概念を併置して論を展開していく手法はとてもわかりやすく、しかもその内容は日本人で理系の自分にとってかなりしっくりくるものでした。
この考え方を外人にわかるようにきちんと説明しろ、といわれてできる日本人はまったく存在しないか、いても数えるくらいでしょう。そういう内容です。
日本を離れて読んだからこそ、より強くそう思いました。


欧米では依然として個というものが強く実在として残っている(と彼らは信じている)のに対して、なんだか日本では個というものは関係性のことをさしているのかなあ、と読んだ後漠然と考えました。
欧米は固体で日本は液体。何かグループに参加するとき、英語では「ジョイントする」というけど日本では「混ざる」という。
なんだかただのレトリックですが、建築においてもそのような差異が両者の間にあるのかもしれない、と思いました。