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東京大学工学系研究科難波研究室で修士課程修了のために上梓した論文、いまさらですがアップします。
"単位の反復と多様性に関する研究" 佐藤桂火 2007年度修士論文


1960年代から70年代にかけて展開したアルド・ヴァン・アイクやヘルマン・ヘルツベルハーといったオランダ構造主義建築を「単位」という視点から分析した論文です。
構造主義建築は当時の文化人類学における構造主義に大きな影響を受けましたが、この論文では、ロマン・ヤコブソン構造主義言語学の所見を援用しながら空間単位の恣意性を発見しました。
この知見は社会に出てからも僕の意識の根底でずっと生き続けている、ような気がしています。


ずっとアップするのを忘れていましたが、ふと今思い出したので。
また、合わせて以下に、『東京大学建築学科難波研究室活動全記録』へ修士論文のその後の展開を文章にまとめて寄稿するよう難波研究室から要請があった際に書いた文章も掲載します。

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(10/01/02作成 『東京大学建築学科難波研究室活動全記録』へ寄稿するための下書き)


1.論文提出時の状況について


これは、偶然に出会ったテーマでスタートし、想像すらしていなかった場所に着地した、不思議な論文です。本研究で最も特徴的な点はその論理展開の意外性にあります。大雑把に全体の構成をつかむと、以下のようにります。

A.建築における「単位の反復」という手法に着目
B.歴史を遡り「単位の反復」を好んで使用していたと思われるオランダ構造主義を調査する
C.調査から得られた知見により「単位」についての考察を加える。『関係に先立つ単位というものは存在しない』
D.次に単位を反復する上での多様性=恣意性であると定義しなおす。つまり単位は実は存在しないということを発見する。『単位とは、人間が意味によって切り分けるものである』
E.いくつかの現代建築に見られる「恣意的な単位」を発見し、単位の読み替えが現代的なテーマであることを確認する。


Aで「単位」という言葉をテーマに掲げているにもかかわらず、Dで「単位」というものは存在しないと宣言し、Eでその宣言を補強するような構成になっています。Dにおける論理の180°の転換は、最初から想定して構築したものではなく、たまたまそうなってしまったものです。2007年当時、一貫して研究し続けるほど情熱を傾けることのできる対象をまだ持っていなかった一人の大学院生が、やっとのことでみつけたテーマらしきものを精一杯膨らませようとして辿った軌跡、がここにそのまま現れています。


しかし、迷いがそのまま論文の展開としてあらわれてしまっていることについて当時の私は大いに悩みました。なぜなら、それは研究の経緯としては自然であったとしても、論文という形式で発表するものとしてはいくぶん不適当であるように感じられたからです。ただ、一旦自分の中で確信に変わってしまった考え方を元に戻すなどというこができるはずもなく、結局、最終的にはそういった紆余曲折はすべてそのまま論文の中に表現されることになりました。


2010年現在改めて読み直してみると、やはり、この論文は拙いと言わざるをえません。どうしようもなく拙くてあまり外に出したくないような気もしてくるほどです。ただその一方で、この論文の中で語られている内容は、今現在の私自身が日々考えていること、デザインの現場でアイディアを練る時によりどころとしているものにどこかでつながっているということが今回読み直してみて改めてよくわかりました。
この論文の内容そのものの重要性もさることながら、今の私にとってより意味があると思えるのは、当時と現在の私の連続性です。


もちろん、当時面白いと思っていたものが今の自分にとっては興味をそそるようなものでなくなっているということもあれば、逆に当時はつまらないと思っていたこと、知らなかったことに現在の私が魅力を感じているというようなことも当然あり得ます。だから今回、難波研究室の活動の集大成として企画されたこの本に修士論文の説明文を求められたときに、この説明文が単なる説明文で終わるのではなく、現在の私から見てこの論文を解釈しなおし、最終的にはこの文章が、当時の私の論文のつづきのようなものになればいいと考えました。修士論文修士課程の修了を持って終わったのだとしても、それは必ずしも研究の終了を意味しません。この研究は今もまだ続いているし、これからもまだ続いていくでしょう。


2.論文の概要


さて、この修士論文の結論は、大雑把に要約してしまうと、
「単位は実は存在しない。単位とは、人間が意味によって切り分けるものである。」
という一言に尽きます。論文の章立てのうち「3-5分析のまとめ」に詳しいので以下に引用します。


構造主義がわれわれに教えてくれたこととはそもそも、人間は言語によって世界を切り分けて分類し、整理してきたということであった。名前をつけて柱、梁、床など本来は渾然一体となっていたものを切り分けたのである。近代建築はドミノの発明によりこの区分けを明確化したのだ。アルド・ファン・アイクも意味を付与することによって物理的な単位を切り分けていった。そして単位の切り取り方は実は恣意的なものである。


言語という鋭利なナイフによって、人間は身の回りにあるすべての物事を切り分けて分類しました。
本文中にあるように柱、梁、床など建物の部位の区別の仕方もそうだし(柱は45度以上傾ければ梁と呼ぶことができるのか、扁平な柱はどの程度扁平であれば壁と呼んで差しつかえないのか、というようなことを想像すればわかると思います)、他にはたとえば一年、二年という時間の数え方、春夏秋冬の四季、朝昼晩など、本来連続的であるはずの時間を分割するというようなことも、まさにこういった言語という道具の効用によるものです。ということは、単位というものはけして客観的なものではなく、人間の頭の中で設定されているものなので、突き詰めて考えると実は単位というものの定義は恣意的であるということができます。この単位の恣意性については、3-1「単位に関する考察:単位と関係の不可分性について」で語られています。


思想としての構造主義の登場以降、関係に先立つ単位というものは存在しない、という認識が一般に受け入れられることになった。 単位はそれ自体が絶対的に存在するようなものではないということであり、単位の存在を認識できると思えるような場合は、その最小単位に先立つ関係の存在を、意識的にしろ無意識的にしろ肯定しているということである。つまり単位を設定するということと単位間の関係を設定するということは同時に起こる。どちらかがどちらかに先んじて存在するということはありえない。


そこに想定される関係がどのようなものであるかによって、単位の在り方は決定的な制限を受けます。それはちょうど器と中身のようなもので、器(関係)の形が変われば、同じ中身(単位)がそこに注がれたとしても結果的に表れてくる状態は異なります。「器」を「形式」「言語体系」、「中身」を「内容」「単語」と置き換えても全く同じ対比関係が成立します。


つまり、単位をどう設定するのかという問題は、人間の認識にかかわる問題だということになります。
意識するとしないとにかかわらず、たとえばある人が「犬」という言葉を口にしたその瞬間に、その人は意識の上で何らかの価値判断基準をもって「犬」という要素の集合体をその背景から切り離し、「犬」という名前を与えて「犬」的なまとまり(つまり単位)として認識しているということです。関係に先立つ単位というものは存在しないということはまさにこういうことを意味します。


この時に、区分けされ分類された単位とその関係の体系というものは、一般に、慣習的に取り決められていることが多い、ということに注意を払う必要があります。意味と、その意味を付与されている物理的な単位(まとまり)との結びつきを、ともすれば私たちは絶対的なものとして捉えがちです。


しかしひとたび単位の恣意性と、単位と関係の不可分性に気づけば、そこには多様な認識の世界を見て取ることができるでしょう。ある一つのものが、それに対する関係の与え方によってあまたの全く違う単位の組み合わせに見えるようなことがあり得るし、また、全く混沌とした雑多なものであふれかえっている状態が、ある見方からすると完全に秩序立っていて統率のとれた状態になっているといようなこともあり得ます。物理的にはある一定の状態にあるものに対して、ありうべきいくつかの状態を同時に見出すことができるこのような概念は、コーリン・ロウの『虚の透明性』に通じるような、豊かな認識体験を生み出すものとして可能性があると考えられます。


そしてこのような恣意性=多様性を実際に実現しているものとしていくつかの現代建築の例を挙げ、この概念を補強して論文は結びを迎えます。


付与された意味によって単位は切り分けられ、整理されている。そして意味と、その意味を付与された物理的な単位の結びつきを、ともすれば私達は絶対的なものとして捉えてしまいがちである。しかし、単位とは絶対的な存在ではなく、その単位の間に設定された関係の存在を要求する相対的な存在であり、その置かれた場所によってその意味を変える恣意的な存在なのである。従って、私達は自由に、既に決められている単位と意味の結びつきを再解釈することができる。すでに慣習的に存在している、区分けされ分類された単位とその関係の体系を受け入れつつも、それを読み替えて新しい単位と意味の結びつきを獲得していくことが、現代建築の一つのテーマとしてありえるのではないだろうか。


3.認識の問題について


実際の建築において、その空間を体験する際に観察者の中で繰り広げられる認識体験を多様にすることが空間の豊かさにつながり、その多様さというものは言語という分類システムの恣意性に起因していると述べました。これが本研究の結論であり、当時の私の到達したゴールでもありました。


しかし、この研究の後しばらくしてまた新しい疑問が生まれました。
言語の恣意性が空間を豊かにするとしても、もし完全な恣意性というものがあるとしたら、それはたぶん広がりを持たない共有不可能なものなのではないか。そして共有不可能なものは普遍的な空間の豊かさにはつながっていかないのではないかという疑問です。


このことを考えていくうちに、私たち人間という<生物>が<環境>からのインプットに対してどのようなプロセスをへて<行動>というアウトプットに到達するのかという問題に興味を持ち始めました。なぜならば、言語による切り分けというものは、本来渾然一体となった塊であるはずの<環境>というインプットに対して、私達<生物>が分類のシステムを当てはめてゆくという<行動>に他ならないからです。


『知恵の樹』(ウンベルト・マトゥラーナ フランシスコ・バレーラ著 管啓次郎訳 ちくま学芸文庫)という興味深い本に、以下のような文章があります。


観察者として、ぼくらは単体をその背景から識別し、それを画定された組織として特徴づけてきた。そのようにして、おたがいに作動的に独立していると考えられる、ふたつの構造を区別したのだ。つまり<生物[生きている存在]>と<環境>だ。両者の間には、欠かすことのできない構造的適合が存在する(そうでなければ、生きている単体は消失してしまう)。この構造的適合の中での、生物と環境の相互作用において、環境からもたらされる撹乱は、生物に何が起きるかを決定しない。生物の中でどんな変化が起きるのかを決定するのは、むしろ生物の構造のほうなのだ。この相互作用は指令的[外部から生物に指示を与えるもの]ではない。というのはそれは、その結果がどのようなものとなるのかを決定しないのだから。だからこそ、ぼくらは結果を[ひきおこす][引き金をひく]といういいかたを使ってきたのだ。そうすることによってぼくらが言及するのは、つぎの事実だ。生物とその環境との、相互作用の結果としての変化は、撹乱する動因によってひきおこされるものではあるが、それを決定するのは撹乱されるシステムの構造だ。おなじことが、環境についてもいえる。[環境のほうからみれば]生物は指令を出すものではなく、撹乱をひきおこすものなのだ。


ここには唯我論的でもなく表彰説的でもない<生物>と<環境>の関係の在り方が示唆されていす。


またこの本の他の個所で以下のような文章を発見することができます。


いっぽうでは、神経システムが世界の表象によって作動していると仮定することの、罠が存在する。そしてそれが罠であるというのは、神経システムがそのときどきにおいていかに<作動的閉域>[閉ざされ自律性をもった回路]をもった画定されたシステムとして[<世界>と独立に]機能しているかをりかいすることの可能性にたいして、人を盲目にしてしまうからだ。――中略―――もう一方に、もうひとつの罠がある。神経システムが完全に、すべてが有効ですべてが可能な空虚の中で機能すると仮定することによって、周囲の環境世界を否定してしまうことだ。これこそもう一つの極みにある、完全な認識上の孤独、つまり唯我論だ(ただ自己の内面的な生活だけが存在するのだと主張する、古くからの哲学的伝統にあるもの)。唯我論が罠だというのは、有機体の作動と世界とのあいだに、いかにして当然の調和や共約可能性[共通の基盤において考えられるのかということ]が存在するのかが、説明できなくなるからだ。―――中略―――ぼくらはここで、この見たところゴルディオスの結び目[難しい問題]であるものをいっきょに断ち切って、かみそりの刃の両側にひろがる深淵を避けるための。自然な道を見いだすひとつのやりかたを、提案したいと思う。―――中略――――この解決策の本質は、明白な矛盾に対するすべての解決策とおなじように、<対立から遠ざかり、質問の性格そのものをかえてやることによって、より広いコンテクストを包み込む>というものだ。


ここでは神経システムが<生物>という言葉にとってかわっているけれども、基本的には最初に引用した文章と同型の論理が展開されています。(このような考え方からすれば、インプット、アウトプットという概念自体が無効であるということになりますが、この文章の中ではこのことについては深く触れないことにします。)


修士論文提出時の結論はやや唯我論的な響きをもつもの――単位とは、人間が意味によって切り分けるものである。――でしたが、この文章を読むと、事態はもっと双方向的、同時的であり、一方的に人間が言語の利用による思考の力を持って環境を切り崩していくというようなイメージは修正を迫られることになります。これはつまり、恣意性=多様性という考え方を持つということは、それだけではとても危険な状態であるということを意味します。なぜならば、言語による区分け・分類という<行動>は確かに<生物>によって行われるけれども、そこには<生物>と対になる<環境>という概念が欠落しているからです。<生物>はもっと開かれている存在で、だからこそ<環境>からの攪乱を受け入れることができる。この開放性こそが言語を共有可能なものたらしめている要因となります。つまり、修士論文提出時の結論「単位とは、人間が意味によって切り分けるものである」は、以下のように修正することができます。


単位とは、人間が意味によって切り分けるものであるけれども、その切り分けにおける恣意性はある一定の範囲の中に納まっているために共有可能性を持つ。


ここまで思考を進めてくると、ばらつきをもったまま共有されているという状態がとても重要であると思えるようになってきます。共有可能であり、かつ同時にあるばらつきをもった認識体験の引き金をひいてくれるようなものの在り方、空間の在り方、そういったものに私はいま、興味を持っています。


私たちがある空間を体験するとき(認識するとき)、私たちが体験している空間は唯一の、定冠詞つきの世界なのではなく、私たちがほかの人々とともに作り出しているあるひとつの空間でしかないということ、そしてのそあるひとつの空間には無数のバリエーションが存在するかもしれないが根本的に分かち合えるものであると考えることができるということ。このことが、今私が日々行っている営み――空間とものを設計すること――の根本的なモチベーションにつながっていっているような気がします。うまく言えているかどうかわからないのですが、<空間>→<人>→<空間>→<人>→<空間>→<人>→・・・・この絶え間ない<空間>と<人>の間の認識の連鎖の中にささやかな一石を投じることによって、建築は世界をほんのすこしだけゆがめることができるのではないでしょうか。


(ほぼそのままの文章で『東京大学建築学科難波研究室活動全記録』角川学芸出版 に掲載)
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